四章[四章]そして7月15日になった。 昇は早めに学校を出た。 家に着くと妻の直美は「あら、今日は早いのね」と驚いた。 「うん、学生時代の友達から電話があって祇園祭に行く事になった」と答えた。 「それじゃ、遅くなるわね」と言う直美に「ああ、遅くなるよ。 何しろ十何年振りかで 会うんだ」と言いながらシャワーを浴びた。 念入りに身支度をして時計を見るとちょうど6時頃に西大寺の駅につきそうな時間だった。 西大寺の駅はごった返していた。 約束の場所へ行くと茂子はゆかたを着て立っていた。 昇を見ると「来てはダメ」という風に目くばせをした。 すぐ京都行きの急行が来て二人は別々のドアから乗り込んだ。 茂子はドアの所に立ち昇の方を見ていた。 昇もドアの所に立ち茂子を見ていた。 竹田の駅で地下鉄に乗り換えた時、茂子は昇の傍に来て「知り合いはいなかったようね」とささやいた。 「これじゃいても判らないよ」と答えると「私はいても構わないわ」と言った。 「僕もいても構わないさ」と昇も言った。 さすがに竹田からは浴衣の男女が多く、みな祇園祭に行くのかと思えた。 四条で降りて地上に上がるとムッとした空気と共に人の熱気が二人を襲った。 昇は茂子の耳元で「すごい人だね」とささやくと茂子は「聞きしに勝るようすね」と返事した。 よく判らないまま昇と茂子は人ごみの中を歩いた。 昔、二人で奈良の盆踊りに行った事があったが今夜の人出はその比ではなかった。 人込みの中を歩くというより人に呑まれているような感があった。 油断をするとはぐれそうになる。 昇は茂子の手をとった。 茂子も手に力を入れて握り返してきた。 二人は久し振りに手をつないで歩いた。 しばらく行くと大きな櫓が見えてきて傍まで行くと「月鉾」としてあった。 そして新町通りという表示が見えた。 「この通りへ入ってみよう」と茂子に言うと子供のように「ウン」と頷いた。 新町通りを北向きに上がると鉾が4つ少しづつ離れてあった。 そのどれもが見事な装飾品で飾られていて息を呑む思いがした。 茂子は「すごいわ」「すごいわ」と言って興奮をした。 「これを今再現したらいくらくらいかかるのかしら」と昇の方を向いて言うので、昇は「再現するよりこれだけの物を 今の時代まで保存してきた事の方がすごいよ」と言うと茂子は「アメリカが京都と奈良だけ爆撃をしなかったお陰ね」 と言った。 昇は「それより京都の町衆が支えてきたからだよ」と答えた。 茂子は「両方だわ」と言ったので昇は「そうだね」と相槌を打った。 横丁を曲がったり戻ったりしながら二人の心は若い頃のような気分に戻っていた。 格子戸の家では内側の戸を外してその家の古美術品を座敷に展示している。 茂子は格子にしがみついて見入っていた。 「昇さん、外国の人達が京都は町全体が美術館だ、と絶賛するのはこの事だったのね。 来て良かったわ。 あなたと来る事が出来て本当に良かったわ」と言った。 あちこち覗いて廻っているうち、お腹の空いているのを思い出し「シーちゃん、何か食べに行こうか、腹減ってないか」と 言うと茂子は「夜店で買って食べたい」と言った。 夜店の出ている通りを尋ねるともう一筋向こうだと教えられた。 「何買うの」と言うと「たこ焼」と言う。 「タコヤキ、そんなもの、どこででも食べられるじゃないか」と言うと「夜店のでなきゃ嫌なの」と強い口調でダダをこねた。 「それから、綿菓子も食べたい。 ええっと、カキ氷も」とまるで小さな子供を連れているように昇は思った。 「ああ、いいよ、いいよ、買って上げるから。 僕はビールを買うよ」と言う昇に「あなたはアルコールはダメよ」とたしなめる。 「どうして」と聞き返す昇に茂子は「だってあなたは肝臓を悪くして入院した事があるくせに」と言った。 「どうして知っているの」と尋ねる昇に茂子は「ふふふ」と笑いながら「私、知っているのよ」と言って上目遣いに昇を見上げた。 「あれは過労の所へ少し呑み過ぎただけだよ」と言い訳をしたのだが茂子は「ダーメ」と意地悪く言った。 タコヤキよりも先にカキ氷屋があった。 「昇さんは何にする」と茂子が聞いた。 「僕はみぞれ、シーちゃんは」と言うと「私はイチゴ」と言った。 昇はみぞれとイチゴを注文した。 二人は人込みを避けて立ったまま食べた。 茂子は半分しか食べなかった。 「どうしたの。 全部食べないの」と言うと「あと綿菓子もタコヤキも食べたいもの」と言ってニコッと笑った。 「そんな物で腹は膨れないよ」と言うと「あなた、すごくお腹が空いているのでしょ」とクスクス笑った。 「ああ、空いているさ」と昇は言ってみたがそんなに空腹は感じていなかった。 しばらく行くとタコヤキ屋があったので茂子は嬉しそうに駆け出して行った。 その後姿を見て昇は目を細めた。 二人で食べるタコヤキはおいしかった。 しかし、綿菓子屋はなかなか見つからない。 綿菓子を探して歩いているうちに三条通りへ出てしまった。 ここも人が多く、それに増して蒸し暑くて息苦しい。 どこからともなく良い香りがしてきた。 茂子は「お香屋さんがあるわ」と言った。 「ここよ」と言って立ち止まった所は間口一間半くらいの店だった。 看板に「石黒香舗」としてある。 「入りましょう」と言って茂子は「こんばんは、見るだけでもいいですか」と声を掛けた。 中年の眼鏡をかけた店員は「どうぞ、ごゆっくり」と愛想よく迎えてくれた。 店の中はこじんまりとした落ち着きのある店だ。 中は香りでムンムンしている。 いろんな細工物があった。 眼鏡をかけた店員は昇に向かって「お香をきいてみますか」と言った。 昇は「えっ、お香をきく」と聞き返すとその店員は「お香はかぐ、と言わずにきく、と申します」と答えた。 「いや、僕はいいです」と答えたものの昇は心の中で「へえ、香はきくというのか」と 思った。 茂子はちいさな「にほひ袋」というのを買った。 「買ってやろうか」と言うと「いいの、自分の好みの物は自分で買うの」と言う。 茂子はそれを包んで貰わずにゆかたの襟の合わせから胸元へ入れた。 「こうしてここに入れると体温で匂いがほんのりしてくるのよ」と昇の方を向いて言ってから店員に 「そうですよね」と同意を求めた。 店員はニコニコしながら「奥様はよくご存知ですね。そうなんですよ、旦那様。女はこんなささやかな物で お洒落をして楽しんでいるのです」と言った。 昇は「旦那様」と言われて体が心なしか熱くなった。 その店を出た瞬間、茂子がいきなりうずくまった。 口元をゆかたのたもとで押さえている。 昇は「シーちゃん、どうしたの」と言ったが茂子は青ざめた顔で返事をしない。 店員も何事かと出て来て「どうされました」と尋ねた。 店員は茂子の横にしゃがんで「気分でもお悪いのですか。 匂いに酔われましたか」と言って背を撫ぜた。 茂子は押し殺したような声で「お願い、触らないで」と言った。 その様子で昇は咄嗟に大変だと思い「茂子、入り口だけは開けなさい」と言って茂子を抱えた。 その時、ゆかたのたもとが赤く染まっているのが見えた。 「どうした、吐いたのか」と言っても茂子は返事をしない。 昇は茂子の顔を覗き込むと茂子は大きく目を見開いて喘いでいる。 「茂子、どうした」と昇はもう一度言った。 茂子は蚊の鳴くような声で「大丈夫、すぐ良くなるわ」と言ったが昇はたもとの赤いのを見てかき氷を吐いたのかと思った。 そのあとでタコヤキを食べたのを思い出し「どうした」と重ねて言った。 茂子は「ハ ナ チ」と答えた。 昇と店員は同時に「ハナチ」と聞き返した。 店員はすぐ中へ引き返し、昇は「横にならなくちゃ」と言った。 店員が「どうぞ、奥へ」と言って招いてくれたので昇は茂子を抱えて奥へ通して貰った。 奥のカマチの所へ座布団を並べて「奥様、どうぞ横におなり下さい」と勧めてくれたにもかかわらず 「いいの、座っている方がいいの」と答える茂子の目から大粒の涙がこぼれた。 昇は茂子を抱きかかえて「横にさせてもらったら」と言ったが茂子は「お願い、新聞紙とビニール袋とティッシュを用意して」 と言った。 店員は手早く用意をしてくれて濡れタオルも持ってきてくれた。 昇はそれを茂子のうなじに当てた。 茂子は「昇さん、ビニール袋の中に揉んだ新聞紙を入れて、二枚になっているティッシュを一枚ずつにして袋の中にフンワリ させて多さん入れて」と頼んだので店員と二人でティッシュを剥がそうとしたが、これがなかなか厄介であった。 日頃、何気なく使っているティッシュだがこんな風になっているのか、と感心した。 店員は「旦那様、後はお願いします。 何かあれば呼んで下さい」と言って店の方へ行ってしまった。 五章へ ジャンル別一覧
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